(夏旬夏)変になりそう

旬の部屋で同衾した翌朝の短い話。甘々です。

2026-01-17
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 文庫本から顔を上げると、窓の外はまぶしかった。スマホを取って時計を見ると、6時15分。二度寝をしようか迷う時間だ。
 背後にささやかな寝息とぬくもり、それから人間一人分の質量を感じる。振り返るとナツキがいて、僕はそれを直視できない。だからさっきまでお気に入りの詩集に耽って、ナツキのことを意識の外に追いやろうとしていた。
 初めてキスをしたのも僕の部屋だった。子どもの頃に何度も一緒に遊んだこの部屋で、ナツキは胸を詰まらせた様子で「幸せすぎて変になりそう」と言った。僕とほんの数秒くちびるを触れ合わせた程度でナツキがそこまで感極まっているのが、僕にはなんだか信じられないような気持ちだった。
 ナツキの方に向き直る。無防備な、やわらかい寝顔を見つめる。銀色の髪をそっと梳くと、ナツキがやわらかく微笑んだ気がした。光の具合でそう見えたのだろうか。部屋の窓から射す朝の白い光が、いつもの朝とは違って見える。
半ば微睡むような意識の中で、起きなきゃ、と思う。起きて、水で顔を洗おう。
 ナツキが起きないようにそっと布団から抜け出して、またそっと布団をかけ直してやる。
 僕が毎日一人で寝るベッドの中にナツキがいる。しみじみありえない光景だと思うけど、それは現実で、なんだか途方に暮れたような気持ちになる。
 ナツキの顔を覗き込む。眠っている人間特有の、静かにゆるんだ表情。ナツキの心は「今」にも「ここ」にもなくて、どこか夢の世界にいるのか、それとも無意識の底に深く沈んでいるのか。
 ナツキの長い前髪をそっとかき上げて、額にくちびるを落とした。くちびるに触れるナツキの生々しい感触に、胸がざわざわする。何でそんなことをしようと思ったのかはわからない。眠っているナツキにキスをした。自分がそんな行為に及んだことは、夢じゃなくて現実だった。
 ナツキのささやかな寝息が、静かな部屋ではどうしても耳につく。もしナツキが目を覚ましたら、自分がどうなってしまうのかわからなかった。
 ナツキはここにいるけどここにいなくて、僕一人が嘘みたいな朝の中に残されている。ふと、抱きしめてほしい、と思った。そんなことを考えるのは初めてで、自分で自分に驚いて、頬が熱くなった。
 ナツキの胸に身体を預けたい。ナツキと一緒にコーヒーが飲みたい。僕が淹れたコーヒーを、きっとナツキは喜ぶだろう。もしナツキが求めているのなら、もう一度くちびるにキスをしてやってもいい。そんな気持ちを、ナツキに全部聞いてほしい。こんな形にならない気持ちをナツキはきっと優しく受け止めてくれるから。一緒に考えてくれるから。
 ナツキは僕の大切な友達、一番の友達……。そんな気持ちの輪郭がにじんで、自分を見失いそうで、早くナツキと話がしたかった。
「ナツキ、」
 夢の中にいるナツキへの言葉を空に投げる。
「好きだよ」
 耳元にくちびるを寄せてそっとささやくと、胸が少しだけ軽くなった。
「大好き」
 そんな恥ずかしすぎる言葉をつぶやいたら、心が浮き立って、むずがゆくて、こんな気持ちも案外悪くないものだと、僕はそのとき初めて知った。
「幸せすぎて変になりそう」という表現は、確かに的を射ているかもしれない。
「僕もだよ、ナツキ」
 窓から射す朝の光にやわらかく照らされながら、ナツキはまだ子猫みたいにすやすや眠っていた。

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